〈歴史を振り返れば、西暦の末尾が「1」の年は、時代の大きな転換点となる出来事が多い。1931年は羽田空港が開港、41年には太平洋戦争が開戦した。さらに71年には日本人の食生活に大きな変化をもたらしたマクドナルドが日本に進出している▼21世紀の幕が開けた2001年。「聖域なき構造改革」を掲げた小泉純一郎首相が誕生した。「自民党をぶっ壊す」と叫び、旧弊に風穴をあけたのは記憶に新しい▼(引用者注、今年1月の山梨県知事選や甲府市長選で「伊達直人」と書かれた票が投じられた)今回、有権者の一部が“待望”したタイガーマスクが、覆面レスラーとしてリングに登場したのも「1」がつく1981年。〉(『山梨日日新聞』2011年2月4日付朝刊)

 上に引いた文章は、2月4日付の『山梨日日新聞』に掲載されたコラム記事の一部である。コラム記事の筆者の指摘には同感であり、かくいう私もこの文章を興味深く読んだ読者のひとりである。ただ、これにひとつつけ加えられるならば、「ケンカの竹中」「反骨のルポライター」として知られる竹中労(以下、労と記述)がこの世を去った1991年を迷わず挙げたい。勘の鋭いブログ読者の方ならば、ここまでの文章ですでにお気づきかも知れない。そう、あれから長い歳月を経て今年2011年は没後20年という節目の年、そして今日5月19日は労の命日にあたるわけである。

 記事のタイトルを目にした読者のなかには、何故労節目の年に「竹中英太郎記念館を訪ねて」なのかと訝しがる方がいるかも知れない。そうした読者のために説明すると、実は記念館の名に冠されている挿絵画家の竹中英太郎(以下、英太郎と記述)が労の父親なのである。ちくま文庫から刊行された労の著作にも「父親は画家の竹中英太郎」と記されているが、意外にも労ファンですらその事実を知る人は少ない。生前の労の遺言によって英太郎の挿絵を相続した妹の金子紫氏(以下、紫館長と記述)が2004年4月に「湯村の杜 竹中英太郎記念館」を開館した。現在は、同館の館長として後述する金子望主宰(以下、望主宰と記述)とともに管理運営に努めている。

 ただ、このように言っている私も評論家鈴木邦男氏のブログを訪れる今年はじめまで、英太郎記念館の存在すら知らなかったひとりである。鈴木氏のブログ記事のなかに同館を紹介する次のような一文が記されている。「甲府に、『竹中英太郎記念館』があります。竹中労さんの資料もあります。私は編集者と共に取材に訪れました。館長は金子紫さんです。竹中労さんの妹さんです。とてもお洒落な記念館でした」。これに加えて氏はこうも言っている。「労さんの話をたっぷりと聞かせてもらいました。(中略)すっかりご馳走になってしまいました。おいしかったです」(「全身ジャーナリスト・田原総一朗さんの激闘50年」『鈴木邦男をぶっとばせ!』2010年12月27日付)と。

 これほどまでに鈴木氏に高く評価される記念館であれば、好奇心がむくむくと頭をもたげて足を運んでみたくなる。ましてや今年は竹中労没後20年である、氏の言葉を借りて言えば「じゃ、行ってみなくっちゃ。そして、労さんのことも、もっと教えてもらわなくちゃ」(「竹中労と『中洲通信』の奇跡」『鈴木邦男をぶっとばせ!』2010年10月18日付)というわけである。かくして今年も2月に入ったころ、紫館長と訪問の予定日時をメールでやり取りしたのち英太郎記念館を訪ねた。記念館に一歩足を踏み入れると、そこには晩年の英太郎が労の依頼で書き下ろした装画、推理作家江戸川乱歩らの作品に用いられた挿絵の原画などが暖かくも落ち着いた照明に照らされていた。

 英太郎記念館の館内に入って入館料を支払うと、慣れた口調で望主宰からまず記念館についての短い説明があった。その後タイミングを見計らって質問メモを取り出し、「質問を用意してきたのですがよろしいでしょうか」と訊ねる。すると即座に「どうぞ、何でも聞いて下さい」と快諾、にこやかな笑顔も見せてくださった。ただ、望主宰は次の予定が入っていると聞き、主宰が実行委員長を務めていた「山梨文学シネマアワード2011」(今年2月に甲府・湯村温泉郷にて開催)について単刀直入に質問を切り出した。この映画イベントの開催直前に望主宰が実行委員長を退任し、甲府事務局であった記念館は一協賛社としての協力に留めるとの発表がなされていたためである。

 これらについて発表する館長ブログにはその理由が詳しく書かれておらず、それゆえに正直言って突然の方針転換の真意を測りかねる部分があった。そうした理由から今回の取材の機会に直接疑問をぶつけたのだが、これに対して望主宰は真剣な表情で映画イベントの内情について実に詳しく語ってくださった。そのなかで、これは内密にして欲しいとクギを刺されることもほとんどなかったと言って良い。それにも関わらず発言内容の紹介を避けるのは、改めて取材ノートを読み直して一市民記者に過ぎぬ私の手には到底負えないと怖気づいたためである。限られた時間のなかで質問に真剣に答えてくださった望主宰に、この場を借りて自らの力不足を深くお詫びしたい。

 事前に用意した質問を一通り終えると、「これを書かせたら誰にも負けないというテーマ(政治や芸能、映画など)、書き手としての強みを作ること」とのアドバイスをいただいた。上から目線という誤解を恐れずに言えば、さすが元電通マン、マーケティングのプロが語る言葉には説得力があると感じさせられた。以前に読んだジャーナリスト日垣隆氏の『ラクをしないと成果は出ない』(だいわ文庫)のなかに「さらりと言われたアドバイスは、説教より身にしみる」という言葉があるが、今回のアドバイスはまさにそれを体感する経験であった。日垣氏の言葉を借りて言えば望主宰の「さらりと言われたアドバイス」に感謝しつつ、先に紹介したアドバイスを実践に移していきたいと思う。

 次の予定が入っている望主宰が出て行かれるのを見送ると、事前に用意した質問の続きを紫館長にお答えいただいた。「記念館の事、知事選の事、そしてなによりも労さんの事について沢山の質問がありました」(「礼儀正しい青年・・・・・・・」『竹中英太郎記念館 館長日記』2011年2月7日付)と館長ブログに書かれている通り、今回の取材では主に「家族から見た竹中労」についてその妹である紫館長にお話をうかがった。特に興味深かったのはこれまでに聞いたことのない竹中英太郎一家の話、なかでも父英太郎と息子労の一風変わった親子関係である。血は水よりも濃いとはよく言われる例えであるが、今回の取材ほどそれを強く思い知らされたことはない。

 それほど衝撃を受けた証言の一部を紹介すると、「私は父に怒られたことはないが、労さんには特別厳しかった。それは(労さんが)男の子だったからではないか」と紫館長。事実、館内に置かれていた漫画家グレゴリ青山氏の『ブンブン堂のグレちゃん』(イースト・プレス)には、「親父が息子を(階段から)突き落とした」と紫館長の証言を物語るエピソードが紹介されている。傍から見れば実に変わった親子関係であるが、特に自らに厳しい父英太郎を息子労はどのように見ていたのか。それについて、「父親を100パーセント崇拝していた。だからすごい親子関係ですよね」と紫館長は言う。ちなみに、そうした労の息子からは「(竹中労を父として)尊敬している」との言葉を聞いたことがある、とも。こうした話を聞きながら、血は水よりも濃いがその血もまた脈々と受け継がれている、と感じるのであった。

 この他にも、竹中労没後20年の今年は記念館で労の企画展ができれば、また記念館を訪れる熱心な労ファンの若者から伝記を書きたいという話があると教えてくださった。労没後20年の企画関連で言うと、フリーペーパー『桜座スクエア』2月号のなかで同誌編集人の高野豊氏が「今年は、竹中労没後20周年。企画を思案中。関心のある方は、本誌まで」(『桜座スクエア』2011年2月号)と述べている。これらの企画はまだ思案中とのことだが、その他にもすでに進行している企画がある。例えば、今回の取材のなかで労ファン著名人の寄稿をまとめた一冊が河出書房新社から刊行予定だと聞いたが、先月には先述の鈴木氏や紫館長のブログでも正式に公表されている。

 こうして何時間にもわたる取材のなかで、拙いインタビュアーに対して実に親切かつ誠実に紫館長は答えてくださった。それも何処の馬の骨とも知れない男にである、それゆえに取材中は終始一取材者としての僥倖を強く感じていた。そして何よりも記念館に入ってからその場を辞すまで、徹底した細やかな気遣いに心からの感動を覚えた。例えば、館内に入って勧められた椅子に腰かけると温かいコーヒーでのもてなし、その後矢継ぎ早に質問を続けているとコーヒー冷めてしまいましたねと言って淹れ直してくださった。そうしたことから、記事の冒頭で紹介した「すっかりご馳走になってしまいました。おいしかったです」という鈴木邦男氏の言葉はその通りだと強く納得した。

 大変ありがたい気遣いという意味で言えば、館長ブログに掲載された記事中の一文もそのうちのひとつである。今回の取材後すぐに掲載されたブログ記事のなかで、筆者の印象について次のように書いてくださった。「編集・執筆活動をされていらっしゃる大泉様、まだ20歳という若さで、こんなに礼儀正しい青年は、はじめてかも知れません。/とても素敵な時間を持てました」(前出「礼儀正しい青年・・・・・・・」)と。取材を終えて自宅でメールを送ろうとするとすでにお礼のメールが届いていたこともそうだが、このブログ記事での最大の賛辞には一取材者として非常に感激させられた。最後の最後まで相手への心配りを忘れない、紫館長はまさに「気遣いの人」なのであった。

 ただその一方で、実際のところ自虐的ではなく実に課題の残る取材であった。例えば、取材前の資料読みなど事前準備の不十分さや自らの語彙の乏しさなどもあって、相手から返ってきた言葉に対して「そうですか、分かりました」という一言を繰り返していた。また、先述のブログ記事によると、実は取材当日紫館長はのどを痛められていたのだという。のどの痛みひとつ見せず気丈に質問1つひとつ答えてくださったが、体調の不調を感じ取れなかったのは自らの観察眼が足りなかったことに尽きる。インタビューの経験が少ないという言い訳に甘えず、今回の失敗を今後の取材活動に活かしていきたいと思う。取材当日のどを痛めるなかで親切に対応していただいた紫館長、お忙しいなかにできる限り質問に答えてくださった望主宰にこの場を借りて深く御礼申し上げたい。

 あとがき
 記事の冒頭で述べた通り、今日5月19日は竹中労没後20年目の命日である。そうしたタイミングに合わせて記事を掲載したと言えば聞こえは良いが、実際のところ取材から原稿完成までに約3ヶ月もかかってしまったというのが本音である。それは記事の書き出しに呻吟することにはじまり、数行書いてはまた書き直すという繰り返しであったが、ようやく原稿を書き上げて今こうしてあとがきをパソコンに向かって書いている。このあとがきを書き終えたならば、きょうの晩にちょうど手元にある竹中労の『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫)に目を通したいと考えている。それは、端的に言うと作家五木寛之氏の言葉に影響されているところが大きい。五木氏は自らの著書『人間の覚悟』(新潮新書)のなかで、亡くなった作家の偲び方について次のように述べている。「作家が死んだ場合は、その人の本をその晩、1冊読むということを慣例にしています。私自身は、葬儀場で手を合わせられるより、そのほうが作家にとってありがたいことだと思うからです」と。労の場合は鬼籍に入ってからすでに20年経っているが、葬儀場を墓所という言葉に置き換えて考えてみるとそのほうが喜ぶのかも、というのは個人的な感想である。こうした理由から、今日という日に労の著書1冊を読んで偲ぶ、静かに思いを馳せる機会としたいと思っている。ここまで読んでくださったブログ読者の皆さんも、今日の晩にお手元や近くの図書館にある労の著書を1冊読んでみませんか――。

   ルポライター竹中労没後20年目の命日に

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【湯村の杜 竹中英太郎記念館】
 ・所在地:〒400-0073 山梨県甲府市湯村3-9-1
 ・アクセス:JR甲府駅南口から山梨交通バス利用で約15分(湯村温泉方面)
 ・入館料:大人300円(高校生以上)、小人200円(小・中学生)
 ・開館時間:午前10時から午後4時まで
 ・休館日:火曜日、水曜日(臨時休館あり)
 ・電話番号:055-252-5560
 ・ホームページ:http://takenaka-kinenkan.jp/

(「竹中労没後20年目の年に竹中英太郎記念館を訪ねて」『JanJanBlog』2011年5月19日付より)