今日ではインターネットの普及により、多くの人がネット掲示板や電子メールなどを通じて言葉のやり取りができるようになった。また、ネット上の個人による情報発信「ブログ」が普及したことで、現在では誰もが匿名で気軽に文章を書き、不特定多数の人に読んでもらうことが可能となっている。私自身、ペンネームで原稿を書いており、そういった恩恵を受ける一人である。これ自体は悪いことでないと思うが、それが誹謗中傷の応酬になってしまうと、言葉を武器にしてお互いを傷つけあうといったマイナス面の影響の方が大きくなる。以下に挙げる例は、そのごく一部である。

 今、中高生の間では「学校裏サイト」なるものが流行し、若者同士の誹謗中傷などの温床になっているとして社会問題化している。そういったなかで、執拗な攻撃を受けてうつ病を発症したり、精神的に追い込まれて自ら命を絶ったケース(いずれも当時中学生)、また最悪のケースとしては、インターネット上でのトラブルが動機の一つとなって、佐世保の小6女児同級生殺害事件など殺人事件にまで至った例がある。また、これは中高生の間だけのことではないのだろうが、生身の付き合いであれば言うのを躊躇(ちゅうちょ)するような汚い言葉がネット社会では頻繁に用いられている。同じ学校に通っている誰かが掲示板に自分の悪口を書き込んでいる訳だから、ネットいじめを受けた中高生の精神的なショックは、私などに到底計り知れるものではない。

 ただ、匿名による誹謗中傷は中高生に限ったことではない。大人の間でも、匿名で別人格になれるのを良いことに、日常的にインターネットのあちらこちらで、特定の誰かを集中的に攻撃して快感を得る「祭り」や「炎上」が起こっている。これらの騒動では、公共物への落書きや万引きなど当事者にも問題がある場合も多い。だがだからといって、不用意な発言をしたから当事者やその家族の心を傷つけても良いということにはならないだろう。私に言わせれば、「祭り」などという行為は「祭りたい」すなわち人を叩きたいだけの野次馬の集まりによる「正義なき暴力」に過ぎない。

 私は数年前からブロガー、今年からはブログジャーナリストとして「ブログ」という言論空間に身を置いている。そのため、数度ながら誹謗中傷を受けた経験があるが、やはり私も人間であるから、心ない人間の言葉には傷つき、少し心が弱くなったことを思い出す。それにも関わらず、自らの非難や中傷によって人が傷つくことにまで頭が回らず、ストレスの捌け口として無責任に物言う不届き者が増えているのが今の現実だ。しかしこういった輩には、自らの発言に対する「責任」や他者に対する最低限の「思いやり」と「やさしさ」を何と心得ているのかを一度問うてみたいものである。


 執筆後記
 今回の記事を書く上で、口にするのも憚られる言葉の刃(やいば)を、名前なき人間から一斉に突き付けられる「人の痛み」について調べたが、その中で誹謗中傷という名の暴力がいかに多くの人を傷つけているかを思い知らされた。そして、当たり前のことながら、私たち物を書く人間は、自らの発言にしっかりと責任を持たなくてはならないと改めて感じた。それは誰に対してか。言うまでもなく、他者、つまり社会である。「匿名なら自分に責任が降りかからないから、何を言ってもかまわない」と、自らの発言に責任を持つ覚悟の無い者に、物を書く資格、他人を批判する資格は無い。