先日15日、文部科学省(以下文科省)が、幼稚園から小中学校の学習指導要領改定案を公表した。この改定案の中で私が最も注目する点は、やはり小学校高学年から英語が必修になるというところである。2月15日付の毎日新聞記事によると、「小学校5、6年生を対象に週1回英語の授業を必修化する」という内容とのことだ。しかし、「文科省が言っているほど、小学校での英語教育はそれほどまでに大切なものなのであろうか?」と私は深く考えてならない。
 確かに「学校」という名の付く場での英語教育は必要なのかもしれないとは、英語が決して嫌いでない私も思うことである。だからこそ、学校での英語教育自体は一応支持したいと考える。しかし、先ずは一番下の段階である「基本」、ホップ・ステップ・ジャンプで言うところのホップである。その「基本」がちゃんと身に付いていなければ、無理矢理に次のステップを踏んで次の段階に進んだとしても、それではジャンプすることは絶対に出来ない。
 だが、小学生ではまだまだ子どもである上に日本語すらまともに使えない有り様である。即ち前述した「基本」がちゃんと身についていないことの表れと言えよう。この状態は、すくすくと成長する段階の小学生としてはごく当然なのかもしれないが、これでは英語教育など全くお話にならない。そのような程度のところで小学生に英語を教えたら、一体どうなることだろうか。もう既に先は見えている。小学生の能力ではごく簡単なことしか教えられず、ただ中途半端に英語を覚えて終わるだけだ。この計画は失敗し、勿論国際化の手助けにはならない。
 また「簡単な日常会話であれば、1000単語程度の使える語彙(使用語)があれば十分である」とアメリカのある著名な言語学者が述べたという話を以前聞いた事があるが、このアメリカの言語学者の言葉は正しいと思う。いくら会話がゆっくりでたどたどしくても、1000単語程度の使える語彙の中でかつしっかりとした内容でコミュニケーションが取れればそれで構わないからである。だからこそ、今回このブログで取り上げた小学校英語教育の必修化問題においては、英語と英会話は中学校・高等学校の過程から始めるのでも十分なのであって、少なくとも小学校で英語教育は全く必要ないと私は結論付けているのである。
 はっきり言って日本は日本、アメリカはアメリカであろう。福田総理率いる政府が推し進める弱腰外交戦略によって、外交上日本がアメリカの手下のようにはなっているかもしれないが、それでも日本はアメリカの一部ではない。だからこそ、日本では英語と共に日本語という日本らしさも守り続けられるように、学校では「英語と国語の教育の両立」が進められていくべきである。まかり通っても、わが日本で日本語が蔑ろにされることは絶対にあってはならない。
 私もそうだが、小学校では英語よりも国語の方が重要であるということは、漫画で以前ドラマ化もされた『ドラゴン桜』、また石原慎太郎・東京都知事や藤原正彦・お茶の水女子大学教授ら文化人の方々も述べていることである。
 また我々は、日本で育ち、日本に住む(生きる)日本人であるからこそ、先ず国語から美しい日本語を知り、その美しい日本語を実際に自らの社会の中で使いこなせるようになる事は、先ず日本人としての必需かつ重要なポイントではないか。それにも関わらず、現代の若者たちはと言えば一体どうだろう。まともに母国の言葉である日本語を使いこなせないばかりか、今流行の「KY式日本語」なる意味の分からないローマ字略語で美しい日本語を乱し、美しい日本語を大切にしていない者が大多数ではないか。これこそ正に「寂しい国、日本」であると言えよう。
 しかし、これはこの若者たちが悪いとは一概に言えないだろう。それは、若者たちが今までなら当然学べたはずの日本の歴史や文化などの事を学べなかったことにあり、その責任はすべて国の宝である若者でゆとり教育という名の教育実験を行い、モルモット即ち実験台代わりにしてきた政府や文科省、歴代の文部科学大臣、中央教育審議会(以下中教審)の四者にある。この責任は、当然の事ながら非常に重い責任であるという事ははっきりしている。
 もう一度言わせて貰うが、それにも関わらずこれらの原因を作った政府、文科省、歴代の文部科学大臣、中教審の四者は小学校での英語教育が必要であるなどというふざけたことを言っているのである。これは、政府や文科省などに現代の若者たちの日本語の利用悪循環が全く理解出来ていないからこその「ズレ」を表しているものであろう。このことは、若者たちと同じ日本人として強い遺憾に絶えない。そして、昔と打って変わり、私たち大人の勝手な解釈によるゆとり教育によって本当は学べるべき事が学べなくなってしまった二十一世紀に生きる若者たちに対して本当に詫びたいと思う。
 そもそも「英語を好きか嫌いかも関係なく、小さい時から「共通言語」である英語を学ばせれば、この国でも国際性の豊かな人材(いわゆるエリート)を育てられる」と胆略的に考える事自体が非常に大きな誤解だと私は考えてならない。
 何故、私がこのようなことを突然に言うのかといえば、前述した大きな誤解のおかげで典型的な国語知らずにして英語ペラペラである為に、話に全く内容の無いバカな日本人を増やしている危機的な状況が現れ始めているからである。私から言わせれば、英語が堪能になっただけで国際人になどなれる訳が無い。英語だけでなく「国語と英語の両立」を必要と考え、これをしっかりと実践出来る人間だけが一生懸命努力する事によって、例を出せば、世界を舞台に幅広く活躍し世に「世界のクロカワ」として知られた故・黒川 紀章氏(世界的建築家。2006年には文化功労者に選ばれたが、翌年逝去。)のような真の国際人に自然になれるものなのである。
 それにも関わらず、その大きな誤解の理由の正当性を文科省や中教審などは全く理解しようとせず、英語が「共通言語」だからと言って、世界に数多い外国語の中で英語一ヶ国語だけを学校の中で勉強させるということは当然大きく間違っているのではないだろうか。何故に共通言語だからと言って英語を学ばせなければならないのか、私は甚だ強い疑問を感じてならない。それはこのことによって「国際化」ではなく、ただ単なる「アメリカ化」をわが日本で推進させることになるからである。
 また、アメリカ以外の他の諸外国の言葉は、私の知る限りでは中学校や高等学校の英語の時間などで人との挨拶ぐらいしか勉強されていないようである。英語を重視するわが国では、それぐらいのことが当然のようにも思われるかもしれないが、私はこの現実に真っ向から異議を唱えたい。外国語は決して英語だけではなく、様々な国の言語があるのだから、それらも外国語の選択肢としてもっと増やして生徒が自分で勉強したい国の言語を選択し、外国語の時間帯はミックスホームルーム形式で各国の言語を勉強出来るようにしたらどうだろうか。そうした方がまだ日本は国際化に取り残されないような気がするのである。
 今回の加筆再掲載記事の元となった「日本こそ、国語。国語こそ、日本。(後編・前編)」の中で「今の日本の教育において真に必要なのは『英語教育』でもなければ『ゆとり教育』でもない、真に必要なのは『国語教育』なのである」という旨のことを強く訴えたつもりである。そして、小学校英語阻止に向けた今回の加筆再掲載記事・小学校英語に対する私の考え方では、今回の改定案を撤回して指導要領の在り方を含め国民的な論議を行う事を求めていくとともに、私は国民の皆様や渡海紀三朗・文部科学大臣含む文科省の関係者らにご理解頂けるよう、小学校英語開始のタイムリミットまで諦めずに訴え続けていく覚悟である。
 ちなみに、これは文科省ウェブサイトの「幼稚園教育要領、小学校学習指導要領及び中学校学習指導要領の改訂案等について」に掲載されている今後のスケジュールによる情報だが、3月16日まで今回の改定案に関するパブリック・コメントが応募出来るという。私もパブリック・コメントを送る予定だが、以下に掲載したアドレスから是非国民の皆様にも「小学校英語必修化反対」の意見をご送付頂きたく、この場を借りてお願い申し上げたい。

○小学校学習指導要領改定案に関する
意見公募手続(パブリック・コメント)についてはこちらから↓
 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/20/02/08021505.htm

(注、この記事は小学校英語に関する過去記事の緊急再掲載に際し、以前当ブログに掲載した「日本こそ、国語。国語こそ、日本。(後編・前編)」の小学校英語に関する記述を抜粋し、この記述へ新たに一部加筆・修正を加えタイトル変更を行ったものである。)