東日本大震災から2年――。きょうという意味深い一日を前にして手に取る1冊として、数多くある関連書籍のなかでも本書を強く推したい。一昨年の3月11日に被災した福島の人々100人の証言を聞き書きするインタビュー集の第1弾である(このうち本人の希望による未掲載話を除き、全29話を収録)。その著者は、福島第一原子力発電所事故以降、自社の若手記者や中継市民を登用して独自の報道にあたったフリージャーナリストの岩上安身氏。その経歴をかいつまんで紹介すると、1990年代の旧ソ連、東欧諸国で徹底的な取材を敢行し、96年には『あらかじめ裏切られた革命』(講談社文庫、現在絶版中)で講談社ノンフィクション賞を受賞した大ベテランである。それと同じ時代、後述する共著のなかで著者らが用いた米ジャーナリスト、スタッズ・ターケルの「オーラル・ヒストリー」(口述の歴史)と呼ばれる取材手法が本書で再び取り入れられている。

 ちなみに、氏が共著者に名を連ねた『ソ連と呼ばれた国に生きて』(JICC出版局)はすでに絶版となっており、Amazonマーケットプレイスなどのネット古書店以外で手に入れるのは難しい。ただ、紙の書籍でこそないが著者執筆分に限っては、同氏の公式ウェブサイト『Web Iwakami』の旧版で閲覧できることを付記しておきたい(「過去の仕事から」『Web Iwakami』旧版より、ロシア・東欧項目の「ソ連と呼ばれた国に生きて」にアクセスのこと)。本書と同じく前出のスタッズ・ターケルの手法を取り入れた共著と併せ読んでみると、一見すれば無関係の旧ソ連と福島、その地に生きる人々に共通して向けられるプロパガンダにより良く理解を深められる。その点でぜひ同書の著者執筆分との併読を勧めたい。

 本書では被災者が1人称で語る構成ゆえに、あくまでも著者はその聞き手の黒子に徹している。黒子としてのその立場を著者いわく後景と表現しているが、それでもチャンドラー作品のなかの主人公フィリップ・マーロウを彷彿とさせる強靭な精神力と人の痛みを感じられる優しさがひしひしと伝わってくる。冒頭の序文によれば、「ひとりのインタビューに費やした時間は、2、3時間はざらで、中には連続して8時間インタビューし続けたこともあった」という。それだけに1話ごとのページ数が平均して短いとは言え、それぞれが長編小説のように濃密な物語ばかりである。被災体験の語り部としての被災者はもちろん、それらを丁寧に聞き取る著者にも心から頭を下げたい。

 長時間にわたるその取材の成果が文中ににじみ出ている、と言うとそれは上から目線に聞こえるかもしれない。だが、実際に被災者それぞれが辿った不屈の物語を読むと、厳しい状況にもめげずにそのなかの可能性へ望みをつなぐ姿が眼前に立ち上がる。本書を介してこうした彼らの懸命な姿を見つめているうちに、不思議と私自身にも大きな一歩を踏み出す勇気や希望がわき上がってきた。それは、私のみならず他の読者にとっても人生での選択、震災以後の生き方を考える上で、本書で語られた困難な状況下での選択それぞれが実に示唆に富んでいる。日常にある何気ない選択もそうだが、特に就職や進学など重い選択を迫られる若い同世代に読んでほしい。

 ただ、これは改めて言うまでもないことだが、多くの被災者が抱える思いは何も希望だけに留まらない。例えば、ノンフィクション作家の大泉実成氏が指摘する「原発事故後の春、福島では自殺者が急増した」(「核という呪い」『G2』Vol.11所収)という現実、なかでも相馬市の酪農家が堆肥小屋の壁に書き遺した「原発さえなければ」の文字に胸が締めつけられる。前出「核という呪い」や四ノ宮浩監督の『わすれない ふくしま』を通じてこの遺書を目にした時、いかに深い絶望感のなか家族を残して自死を選んだかを考えると、福島の人々の哀切な思いに粛然とさせられた。本書に登場する被災者も例外ではなく、先に引いた「原発さえなければ」との言葉を時折取材のなかで口にする。そして原発震災がもたらした家庭や将来への悩みや苦しみ、怒りを打ち明けている。

 〈私の息子の高校2年生から発せられた言葉なのですが、一生私の記憶に残る言葉があります。
 「父ちゃん、なんで福島なの? 俺、結婚できるかな。もしかしたら結婚できないよな」と。
 そう言われて愕然としました。その時に私は、「大丈夫だよ。福島県人同士で結婚すればいいじゃん」というふうに軽く返すしか、言葉は見当たりませんでした。
 下の小学生の娘は「私、大丈夫なの? これからずっと生きていけるの? 結婚もできるの? 子どもも産めるの?」っていう話をします。やはり子どもなりに心配しています。
 そういうことを聞かされると、どうしていいかわからない。地震のせいなのか。原発のせいなのか。でもやはり私は原発のせいだと思っています。
 地震は起こるのはしょうがない。でも地震が起こっても原発がなければこんなことはなかった。原発があったからだ、というような結論に達しました。
 原発は、憎いというよりも、なければよかった。なぜあったのか。なぜそこに立地したのか。誰が決めたのか。なぜ福島なのか。なぜ私たちのところから40km位のところに原発があるのか。福島第一があるのか。そして福島第二はもっと近いところにあるのか。(以下略)〉

 上に引いた証言は、本書の第4話で語られたいわき市の自営業男性の言葉だが、私自身本書を読みながら特に胸がつまった文章の一節である。ごく何気ない日常のために原発依存の生活を続ける身で、「原発さえなければ」という言葉を聞いて何も感じない人はいないと思う。ここでなぜと投げかけられるいくつかの問いかけに、どれほどの人が真正面から答えられるであろうかとも。もちろんそれらが恨み節などでないことは十分承知しているが、その他の文章の行間からも読み取れる「原発さえなければ」との思い、痛切で静かなその叫びが直に伝わってくる。本書ではこれらのひとり語りに加え、被災者それぞれのその後を追った「そして、今」が収録されている。先に挙げた場面に当たると読み進めるのがつらくなり、正直何度か読むことを止めようかとさえ思った。

 だが、本書の読了に心が折れそうになった時には、序文に記された著者の言葉が繰り返し思い出された。「『ニュース』にならない無名の人々の日常に根づいたドラマを理解せずして、福島で起きている事態を理解することも、福島の人々に寄り添うこともできない」。そう、この厳しい現実から目をそらしていては何にもならないと思い直し、無理をせずに1日1話と決めて少しずつ読み進めていった。冒頭で紹介した通り本書のインタビュー収録分は全29話と、1日1話を読むだけでひと月もあれば読み通すことができる。私と同様に途中でページを繰りがたくなった時は、決して無理をせずに少し読むだけで良い、先に挙げた1日1話の読了目標を立てつつ読んでみてほしい。

 ――と、このような拙評を書くために今回筆を取ったのは、被災者の心に寄りそう形で紡がれた本書を世に知らしめたいとの思いは言うまでもなく、その出版にあたって悪戦苦闘を重ねた無名の人々の思いに応えたいと考えたからである。彼ら裏方の存在は、序文の末尾に記された謝辞や巻末のスペシャル・サンクス、インターネット上では本書特設サイトの「スタッフ・協力」ページから窺い知れる。記者クラブメディアがその書評で取り上げる機会の少ないなか、制作に携わった多くの人々の魂に報いられればと思い、拙い文章で恐縮ながら今回本書を紹介する書評の筆を取った。書評の終わりに、本書の完成に小さからぬ貢献を果たした彼らの横顔にも触れておこう。

 まず本書収録のインタビューに応じた福島の人々は言うまでもないが、これに加えてその文字起こしに取り組んだ同じく市井の人々を挙げたい。インターネット動画配信や実名を晒してのインタビューという形を考えると、そのリスクにも覚悟を決めて取材に臨んだ姿は想像にかたくない。ここで語られた被災者の言葉を活字に起こしたのは、プロのテープライターでなく自ら協力を申し出た素人の市民である。だが、聞き書きの名手と呼ばれる作家塩野米松氏ですら、「話している言葉を文字に書き起こすというのは大変な作業」(『塩野米松流 聞き書き術』「第11回 聞き書き甲子園」)とかつての講演のなかで語っている。それを考えると彼らの労苦は十分察するにあまりあるが、努力の甲斐があって非常に重いテーマながらも全体的に読みやすい形に仕上がっている。

 次に紹介する本書制作の立役者は、いわゆる出版不況が叫ばれて久しいなかで、後述する「被災地モノ」のシリーズ刊行を英断した三一書房である。同社はスタッフの求人募集を公式サイトに掲載した際、「厳しい時代状況で、書籍もなかなか売れません」(三一書房のツイッターより)と、紙の本の厳しい売り上げをツイッター上で率直に吐露している。それならばなぜ自らの首を締めるようなことをと思う向きも当然あろうが、そこには小出版社としての矜持や心意気が感じられるように思える。以前に読んだ『風化する光と影』(マイウェイ出版)のなかに、その制作にあたって出版取次へ相談したところ、原発モノに比べて被災地モノは売れないと言われて驚かされたという発行責任者の談がある。このエピソードが物語る出版界の一般認識にあって、前出『風化する光と影』のマイウェイ出版もそうだが、「被災地モノ」の本書を世に出そうとした小出版社の気骨に恐れ入る。

 そのなかでも特筆すべきは、様々な立場の被災者の声を丁寧に聞き取り、震災から2年を経てなお耳を傾け続ける著者であろう。資金的かつ人的資源の不足を抱えるなかで苦労も多いだろうが、それでも本書冒頭の序文を「未曾有の惨事にあって、悩み苦しむ人々の、故郷への想いを聞く旅は、まだ途上である」と結んでいる。この一文を読んでいると、以前氏のトークイベントで耳にした「自分が英雄になろうだなんてお門違い。自分にできることをやるだけ」という言葉と重なって思えた。この言葉は震災後自らの活動に対する批判を受けての発言だが、それを実践するように本書のもとになったインターネット動画配信の第3期や『百人百話 第2集』の刊行準備を着々と進めている。震災2年の今改めて本書を再読しつつ、近く刊行予定というその続編にも期待して待ちたい。

 (付記) この書評を書き上げてからしばらくした後、ツイッターのタイムラインにフォローしている岩上氏のイベント告知のツイートが流れてきた。氏のツイートによると、東京・港区の麻布十番にあるパレットギャラリー麻布十番にて、「3.11――それぞれの選択。福島の声。『百人百話』展」が開かれているという。今回書評でも一部紹介したインタビューの映像がインスタレーション形式で、冒頭に述べた若手記者や中継市民らが撮影した写真とともに展示されている。イベントの詳細は、先にリンクした本書特設サイトをご覧いただければ幸いである。きょう11日までの開催で入場無料(終了当日の告知となりまして申し訳ありません)、ご興味のある方はぜひご来場をどうぞ。


百人百話 第1集百人百話 第1集 [単行本]
著者:岩上安身
出版:三一書房
(2012-03-27)